【訃報】中村紘子さん死去。国際的ピアニストの名言集
国内外問わず世界中で活躍し続けたピアニスト中村紘子(なかむら ひろこ)さんが、2016年7月26日亡くなられました。
数多くの実績を残し、ピアノと共に日本のクラシック界をけん引され、近年では、国内外の若手ピアニストの発掘、後進の育成にも努められていました。
今回は、中村紘子さんが残した名言をここで紹介したいと思います。
ピアノ以外の楽器をされている方にも、ぜひ読んでもらいたい言葉の数々です。
中村紘子さん名言集
ピアニストはバレリーナや体操選手と同じで筋肉労働者でもあるんです。
18歳で「あなたは才能があるけど、1からやり直しなさい」と言われて、それがショックで一時は放心状態になってしまいました。
「自分が今まで悲しいことも悔しいことも全て我慢してやってきたことは一体何だったんだろう」と。
譜面どおりきちんと弾けていれば、一定のレベルまではいける。
でも、それではやはり人の魂に響く演奏家にはなれません。
クラシック音楽というのは基本的には大衆化しえない部分があるんですね。
より楽しむためには聴き手側も訓練しなければならない面があるので、一気に「なんでも面白い」というものではないんですね。
やはり日々の努力が必要。
自分の血肉になるまで弾き抜くことが大切なんですよね
ピアノという楽器を弾きこなすには、たいへん高度な技術が必要です。
それを習得するだけでも相当な努力が必要ですが、最終的には演奏者の思い、つまりその作品やピアノを通して何が言いたいのかが、伝わってくるかどうかを評価します。
最終的に一番評価が高いのは、個性、つまり「言いたいこと」を持っている人、しかもそれがロマンチックである人ですね
演奏技術に自信があり、実績があっても、現地の言葉も話せないまま海外に出ていくのは無謀だと思います。
実際、欧州で活躍している日本人アーティストは、小学生か中学生くらいで渡欧しているのでドイツ語やフランス語がネーティブのように話せ、現地で様々な人からサポートを得ています。
海外でのビジネスにおいて重要なのは、相手やその国を理解しようとする真摯な思いです。
近年は国際的に活躍する日本人女性ピアニストも増え、私がデビューした1960年代とは隔世の感があります。
大ピアニストのウラジミール・ホロヴィッツ氏は「東洋人と女にはピアノは弾けない」という”迷言”を残しました。
演奏の面白さは、超絶技巧という身体能力と、音楽性という情緒のせめぎあう中、細い平均台を渡っていくようなもの。
一日休むと一日衰えてしまう。
筋肉だけではありません。
耳も感受性も一緒に退化するんです
ピアノが上手い、ヴァイオリンが上手いという人は山ほどいます。
問題は聴き手になにをわかってほしいか、何を伝えたいかなんです。
中村紘子さんプロフィール
中村 紘子(なかむら ひろこ)、本名:福田紘子。
1944年7月25日-2016年7月26日。(享年72)
山梨県生まれ。
3歳半からピアノを習い、4歳からピアノ教育家・ピアニストの井口愛子に師事。
1954年、全日本学生音楽コンクールピアノ部門小学生の部で全国第1位入賞。
慶應義塾中等部に進み、1958年、全日本学生音楽コンクールピアノ部門中学生の部で全国第1位入賞。
1959年、日本音楽コンクールで第1位特賞を受賞。
1960年に岩城宏之指揮の東京フィルハーモニー交響楽団の演奏会にソリストとしてデビュー。
1965年、第7回ショパン国際ピアノコンクールで、第4位入賞と最年少者賞を受賞。
以後、日本のピアニストの代名詞となり、国内外のオーケストラとの共演や世界各国でのリサイタルなど数多くの演奏会を開催。
1974年9月に芥川賞作家の庄司薫と結婚。
1982年からはチャイコフスキー・コンクール、ショパン・コンクールなど数多くの国際コンクールの審査員、1997年から浜松国際ピアノコンクールの審査委員長も歴任。
1989年、ノンフィクション作家・エッセイストとして、「チャイコフスキー・コンクール」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
2005年のエクソンモービル音楽賞、2008年の紫綬褒章、その他、日本芸術院賞、恩賜賞など多数受賞。
2014年に大腸がんが見つかり、一時休養。
2015年6月に本格復帰を宣言したが、再び同年8月に活動休止を発表。
2016年7月26日永眠。
ご冥福をお祈りします。
ライタープロフィール
スタジオラグ
中尾きんや
スタジオラグスタッフ
ウェブサイト:https://www.studiorag.com
Twitter:kin_kinya